2024.4.5
「わたしたちも人をゆるします」を考えてみた

明星での1日は午前8時30分、放送での朝のお祈りから始まります。
天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。
わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
(アーメン)
この中の一節 「わたしたちも人をゆるします」
毎朝、この箇所を唱えるたびに、「人を許すということは、相手が悪くて、自分は正しいということ。なんだか上から目線だなあ~。」と少し感じていました。私は自分にあまり自信が持てないタイプの人間なので、「自分の思い、考え方や行動は、果たして正しいのかなあ。」といつも思っています。だから、人を許しますなんて言い方には、少し抵抗があるのです。
そこで、ある日、とある機会に、ある宗教科の先生に思い切って聞いてみました。
「先生、ちょっと言いにくいのですが、この『人をゆるします。』という言葉、少し上から目線のような気がするのですが・・・」
先生は、にっこり笑って、そしてこうおっしゃいました。
「確かに上から目線かもしれませんねえ。でも、『あなたは時には過ちを犯す。わたしも時には過ちを犯す。だからお互い様』ということではないでしょうか。」
先生のこのお話は、私の思いをやさしく受け止めつつも、わかりやすい言葉でスーッと私の心に入ってくるものでした。
この世には、完璧な人間なんていません。時にはだれでも間違えます。よくないことをしてしまいます。当然、わたくし校長も同じです。だからこそ人間はおもしろいとも言えるのですが。まあ、程度ということがあるので、なんでもかんでも許す心境になるのは、至難の業ではあります。目を背けたくなるイスラエル・パレスチナ・ガザ地区の紛争を見ていると、許し合う日は永遠に来ないのではないか、そんな絶望的な気持ちにもなります。
でも、自分に向けられた人からのちょっとした不快な行いに対しては、基本的には、その相手の行動・言葉に対する「許せない気持ち」や「怒り」「悲しみ」という感情に囚われないように、支配されないように意識したいものです。
ある意味、「人を許せない」という感情が芽生えた瞬間は、神様から自分が試されている瞬間なのかもしれません。
自戒を込めて。